昭和44年03月21日 夜の御理解
今日は私は天地の親神様の思いの一面とでもいおうか、そう言う様なものにこう、触れた様な感じがしたんですけれども、なんというんですかね、おかげは和賀心にあると仰せられるけれど、その人間の心の状態と言うものの、いわゆるその人の性根というもの、その性根の根性の悪さと言うかね、性根の悪さというか、もう本当に外見まぁいうなら虫も殺さぬような風をしておりながら、その心の底にあるその汚さというものは、人間のきたなさは皆がもってるんですけれど、その性根の悪さというんでしょうね。
根性の悪さそれに私は触れた気がしましたが、そういう時に神様がどういう風にお感じになるだろうかと思ったら、もう途端に悲しゅうなりましたですね。もう本当に悲しゅうなって、そしてその次にはね腹立ちさというか、もうというかね、そしてその悲しさ、それから腹だたちさ、それからまたそれでもやはり、それでもやはり氏子、それでもやはり信心を頂いておる者、しかも何十年の信心を頂いておる者ですから、それでもやはり可愛いといいますかね。
それでも何か知らんおかげを受けてくれよという、あの思いの切なさというのを私感じてから、はぁ神様の思いの一面にこう言う様なものがおありになるんだなと、私実感させて頂いた事から感じた事ででした。本当にお互いひとつ本当に性根の底から、ひとつあのう清めさせて頂いて、物の見方考え方がですよしそれが悪い事であっても、良い事に見えるような、それが本当にあのおかげ、この楽なおかげの頂ける心の状態を求めての、信心でなからなければいけないなぁとこう思うんですね。
なんというんでしょうかね、その事をお願いさせてもらいよりましたら、長刀ですね長刀の柄がないです、握る所ですね、まぁその方が女の方ですから、やはりあの長刀をもって見せて下さったんでしょうね、長刀は女が使うもんですから。ところが柄がない例えばこれはもう私を、また私一家をある意味合いでは、切り刻みしようと言う様な気も、握るところがあったら押さえるところがあったら、あぁやってギャフンて言わせてやろうというな気持ちで来たんでしょうね。
そしてそのところが握る所がない訳ですね、?みところがない訳ですよ。そしてその後にあのまぁ帰って行かれる、私はまぁ会いませんでしたけれど、帰っていかれる後ろ姿を思うただけでですね、もう本当に悲しゅうなりましたね。そしてむしろ自分がもうまた、むしろ自分が切り刻まれる思いで帰っておられるということですよ。はぁもう本当に人を傷つける、例えば人を殺せば穴二つなんていうけれどもですね、うぅんこちらは一つのあのう穴に入る事もなかなければ苦労する事ない。
けども相手はこっちに握る所があるなら握ってとっちめてやろう、と言う様な根性で見えたつのところが、実際はもう目の当たりにそれを見たりこれを見たり、聞いたりしてからとっちめる所がない切り付ける隙がない、それからそのある事に触れてですたいね、今度は反対に自分自身が切り刻まれる思いで、帰っていかれたであろうと私思うて、まぁその後からそれを聞かせてもらってから、お祈りをさせて頂いた訳でございますけれども、問題はね、何十年の信心をしておっても性根がね。
本当に根性が悪かったらおかげにならんです。お互いがいっちょ本気で根性を尽くしをする。根性は必要だ最近の信心に根性と言う事を言われますが、根性はなからなきゃいけません、もうよかよかというごたる風な事ではおかげは受けられません。やはり根性がその根性がね、有り難い事に使われなければね、しかもそれが人を傷つけようとしたり、人を疑ったり妬んだり憎んだり、そう言う様な心でおかげが頂ける筈がない。そしてむしろ反対にいわば切り刻んででもやろうかと言う思いが。
こちらにその隙が無かった。反対に自分自身が切られておったと、いや切られて帰られたであろうとこう思うただけでです、本当に今日は私天地の親神様の、お心の一面とでもいうか、そういう根性そういう性根、私はもう本当にもう繰り返し申しました。もうどうして根性の悪い人じゃろうかねって、それを聞いてから。本当にどうした根性の悪さじゃろうかとこう思いました。そしたらねそれがもう悲しゅうて、悲しゅうて堪らなかった。しかも次の腹だたちさそれでもやはり、あれでも何十年信者氏子として。
おかげを頂いて金光様を唱えておるかと思うた、もう悲しゅうなって。辛くてもですねやはり神様の氏子としてのその、なんていうかねうまい言葉があったら、そういうことじゃいつまでたったっちゃ、おかげは頂かれんぞと絞るような、あの例えばお心でですね、言葉でいうて下さる事であろうと私は思うんたけれど。反対にしかも切り刻まれて帰っていく後ろ姿というものを思われた時にです、本当に自分で自分のいわゆる墓穴を掘るというかね、人を殺せば穴二つというが。
相手の方は殺されんで自分が入って穴を掘って行く様な性根、そういう根性そういうようなものがね、お互いの心の中にもう微塵もあっちゃならんだけれども、なら実際はやはりそういうものも自分の心の中にすら感じる事がある。恨むねたむ、憎むね疑うなんて言う様な事がです、それをもう本当に例えば疑わねばならんようなことでも疑わんで済むような私になる稽古を本気でせにゃいけんと思うたね、今晩夕方からそれは本当に感じたですね。はぁでも本当に結局結論として、神様には勝てんなぁとこういうことでしたね。
どうぞ。